「どんな手段を使っても生き抜く」そんな感覚を持ちなさい(曽野綾子)。この言葉は、週刊現代に掲載記事のスクラップ(2013年04月30日発売)から、紹介します。曽野さんは、今日に至るまで多数のベストセラーを著しており、言葉の端々から人生の理を垣間見る思いです。3日間の掲載でしたが、たくさんのアクセスをいただきましたので追加情報を2回にわけて掲載します。
問題なのは、いまの日本人が「オリジン(原点)」を見失っていることだと思うのです。つまり、人間は本来、何に拠って立つのか大切なものは何なのかがわからなくなっている、つまり、どうしようもないお坊ちゃんばかりというわけです。
日本は恵まれた国です。しかし、食べ物も十分でない貧困国で、お腹が空いたら人はどうするか。水を飲んで寝るか、食べ物を盗むか、そうでなければ乞食をするか、この三つの選択肢しかありません。
私がこの話を大新聞で書くと、彼らは「乞食という言葉は差別語だから使わないでください」と言います。反応といえばそれだけです。現実に目を向けない、情けない人々だと思いませんか。
西欧では、乞食は職業だとみなされています。彼らもまた、愛する家族のため一生懸命働いているのだと認識されているのです。キリスト教では、どんな職業も神によって召された「天職(ヴォケーション)」だと考えられているためです。しかし日本では昔から、人間が職業の貴賎を決め、それが支配の仕組みにもなっています。
日本には、有徳の士がいません。厳しい現実に目を向ける覚悟や勇気のある人がいませんね。ギリシャ語では、徳と勇気は同じ「アレテー」という言葉で表されます。この言葉はたくさんの意味を持っていて、第一の意味は「卓越」、その次が「男らしさ」、それから「徳」「奉仕」「貢献」「勇気」。これら全てを含んだ概念を、古代ギリシャ人は「アレテー」と名づけました。
日本の中心、特に霞が関などには、この「アレテー」を持たない人々ばかり大勢います。徳がない、勇気がない、男らしさもない。卓越もしていないけれど、していると思いこんでいる。どうしたらできるかではなくて、できない理由を説明することばかり優れた人々です。
(続く)